中之島線竣功之記
  
碑の背景
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京阪電鉄中之島線は線路は京阪本線の天満橋駅から分かれ、なにわ橋駅・大江橋駅・渡辺橋駅を通り中之島駅までの約3kmで、所要時間は約7分となっている。 この路線は京阪電鉄・大阪府・大阪市及び金融機関など58社が出資して設立された第三セクターの中之島高速鉄道により2003年5月28日に起工式が行われた。 工事は6工区に分けられ、駅部分は開削工法、駅間部分はシールド工法により行われたが、2007年10月31日に全区間でのシールドトンネルが貫通し、2008年3月21日には全区間のレールが敷設された。 中之島高速鉄道が第三種鉄道事業者、京阪電鉄が第二種鉄道事業者として2008年10月19日に開業した。
中之島線開業にあたってはこの碑の他に「坂陽日々新」と「シールドカッター」の碑が建立されている。

写  真
基本情報


所 在 地 : 中之島駅  ラッチ外コンコース
MapCode : 1373380*83
建 立 日 : 2008年10月19日
建 立 者 : 京阪電鉄
        中之島高速鉄道
種   別  : 開通・開駅碑
撮 影 日 : 2009年12月19日


碑  文     中之島線竣功之記
 大阪(大坂)の中心に位置する中之島は、パリのシテ島と比肩する歴史に彩られた美しい中州である。 堂島川と土佐堀川に囲まれたこの地は、江戸初頭に水運の便に着目した「淀屋」の初代岡本常安(辰五郎)が拓いて後、各藩の蔵屋敷が軒を並べ、全国の産物の一大集積地となった。 明治維新を迎え、廃藩により蔵屋敷は姿を消したが、経済の中心地としての役割に加え、跡地に大阪市庁舎や図書館、公会堂等の文化施設、大阪帝国大学(現・大阪大学)を始めとする学校や病院も次々と建設され、近代大阪における政治、文化の中心地として発展した。
 しかしながら、大阪の中心街路として御堂筋が建設されて以降、経済の中心は本町地域へ、商業の中心もキタ、ミナミと称される梅田、難波の鉄道ターミナル周辺地域に移り、中之島西部は次第に取り残された。 都心の陸の孤島とも言われた同地域の復興を願う声と共に鉄道敷設への期待が次第に高まるに至ったのは時代の要請のしからしむることであった。
 昭和63年に京阪電気鉄道株式会社社長角田寛は、中之島線建設計画を発表、後に社長となる宮下稔とこの実現に向けて奔走、平成元年5月、運輸政策審議会答申第10号において、中之島地域の東西方向の交通を担う路線として認められるに至った。 しかし、膨大な建設費と河川部での工事という技術的課題が横たわり、直に工事着手という訳にはいかなかった。
 平成12年の運輸政策審議会答申第19号において、第三セクターにも償還型上下分離方式の適用が認められ、平成13年には公営、準公営企業に準じた補助制度が整備されたことに伴い、大阪市、大阪府と地元を中心とした有力企業の出資を仰ぎ、建設主体の中之島高速鉄道株式会社が設立された。 これにより、新線建設は俄かに現実のものとなり、平成15年5月28日、京阪電気鉄道株式会社会長金馬昭郎、社長佐藤茂雄、中之島高速鉄道株式会社社長伊藤貞男が起工式において鍬を振るう中、建設工事は本格的に着手された。
 工事区間は、京阪本線天満橋駅より分岐、大川を横断、中之島北■に沿って西進し、大阪市地下鉄御堂筋線、四つ橋線を下方横断して、玉江橋に至る計画延長2.9kmであるが、河床の直下を掘進、上町断層を横切り、出水の予想される天満砂礫層を横断するもので、難工事が予想された。 このため、計画段階から学識経験者の意見を仰ぎ、先端的施行技術を導入、また建設関係者の直向きな努力もあって、工事は順調に進み、平成20年10月19日、中之島地域待望の新線京阪電気鉄道中之島線開通の日を迎えることができた。 この完成により、中之島西部の一層の発展が期待されるほか、大阪の一大都市拠点である中之島と世界に誇る文化・観光都市である京都が結ばれ、更には多くの鉄道との接続により、関西圏の交通網整備に資するものと信ずる。
 ここに、本線の建設にあたって、ご協力とご支援を賜った関係各位と沿線の皆様に深甚なる謝意を表し、その経過を記するものである。
    平成20年10月19日  京阪電気鉄道株式会社
                         代表取締役CEO      佐藤茂雄
                         代表取締役社長COO  上田成之助
                    中之島高速鉄道株式会社
                         代表取締役社長      坂本富司雄



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