大山口列車空襲
慰霊の碑

  
碑の背景
コメント
大山口の駅前に保存されている蒸気機関車の横に「大山口列車空襲慰霊の碑」と書かれた大きな石碑が建立されている。 この碑の由来は下記の碑文にある様に、終戦を目前にした1945年7月28日、809列車が艦載機の襲撃を受け、多数の犠牲者を出したというものである。 この時期の艦載機による列車空襲は8月5日の湯の花トンネル(八王子市高尾)における空襲、8月8日の西鉄筑紫駅における空襲がある。

写  真
基本情報


所 在 地 : 西伯郡大山町国信
         大山口駅前
MapCode : 252819659*74
建 立 日 : 1992年 7月28日
建 立 者 : 大山口列車空襲被災者の会
種   別  : 慰霊碑
撮 影 日 : 2006年11月 4日



碑  文    由来記
 昭和20年(1945)7月28日、午前八時頃、大山口駅東方約六百メートルの上野地区切割りに避難した、鳥取始発出雲今市行第八○九列車に、米軍艦載機三機が銃爆撃を加えた。 死亡四十四名、負傷三十一名以上の犠牲者を出し、上野では全半焼三戸の火災も発生した。
 列車は十一両編成、前二両は病客車で、呉海軍病院三朝分院を転退院する軍、工廠関係者と付添いの衛生兵、日赤救護看護婦が乗り他の一般客車は、チ号演習に動員された国民義勇退、勤労動員学生、軍需工場徴用者、一般乗客等で超満員であった。 米軍機の機銃弾とロケット弾による攻撃は、前四両に集中、死傷者の折り重なる惨状を呈した。
 敗戦直前、乗客は本土決戦体制下にあったが、非戦闘員であり、更に病客車には大きく赤十字マークが書かれていたにもかかわらず、米軍機は執拗に攻撃を繰り返し、静かな田園は一瞬にして惨劇の場と化した。 その日を境として、遺族被災者の苦難の日々が永く続くことになった。
 平成三年四十七回忌の合同慰霊祭を機に、大山口列車空襲被災者の会がつくられ、その呼びかけに応えた県内外の遺族被災者等一千有余の人々の協賛、関係町等の支援によってこの碑は建てられた。
 愛する肉親を失った遺族の悲しみは消えず   死者は無念の思いを語ることができない
 再びかかる悲惨を繰り返してはならない      誓いと鎮魂の祈りをこめてこの碑を建立する
    平成四年七月二十八日
       大山口列車空襲被災者の会


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