岐阜県 揖斐川町
 名鉄 モ514
 

保存場所 : 谷汲駅跡  (Map Code : 242688835*34 )
 名鉄 モ755
 
保存場所 : 谷汲駅跡  (Map Code : 242688835*34 )
  赤い電車の輝かしき足跡  名古屋鉄道モ750形 755号車の紹介
昭和3年11月、初代名古屋鉄道に誕生した半鋼製車両デセホ750形。 同時期に(751〜758)8両がデビューした。前年登場の先輩格モ700形とともに、西部線で活躍。 
当時、名鉄の名古屋側ターミナルは北部の「押切町」にあり、ここから都心ターミナル「柳橋」までは名古屋市電に乗り入れるため、屋根上には中央にパンタグラフ、前後にポールを備えていた。こうして名古屋都心〜郡部直通車として大活躍した。
昭和7年10月8日、犬山線電車の国鉄高山線下呂までの直通運転が開始された。毎週土、日、祝日に柳橋−下呂間を運転。ただし非電化の鵜沼−下呂間は高山線のSL牽引列車に併結されて運転。
この優等列車に使用されたのが、当時最新形のデセホ755号車(今、ここ谷汲に保存されている電車)と756号車で、半室畳敷に改造して営業に就いた。これは後の高山線直通準急たかやま号→急行北アルプス号→特急北アルプス号のはしりともいえる。
昭和23年4月18日、新岐阜駅が現在の位置に移転、同23年5月12日、名岐、犬山、津島線が架線電圧1500Vへ昇圧したのに伴い、755号車は、当時まだ600Vのままだった小牧線、広見線に転属した。よって、新岐阜駅移転から名岐線昇圧までの約1カ月間は現在パノラマスーパーや、パノラマカー他、本線系1500V車両が行き来しているホームに出入りしていたわけである。
         以降、下記のような足跡を755号車は辿ることになる。
昭和39年10月 1日  小牧線1500V化。
昭和40年 3月21日  広見線1500V化。これに伴い瀬戸線へ転属。台車変更される。
昭和48年 8月中旬   瀬戸線に3700系車両が本線系から転属。これに伴い揖斐・谷汲線へ転属。
瀬戸線から岐阜(揖斐・谷汲線)へ転属の際に、主電動機がとりかえられている。岐阜地区に転属後、雨樋取付、自動扉化、窓のアルミサッシ化等の改造が施された。
昭和59年には、ワンマンカー改造が施され、列車無線、バックミラー、料金箱、整理券発行機などが撮りつけられた。
谷汲線は名鉄路線中きっての豪雪地帯を走るため、除雪対応が重要であった。755号車にはスノープラウを取付け、冬場の積雪時にはラッセル仕様でも活躍した。
谷汲線は大正15年4月6日、谷汲鉄道の手で開通。昭和19年3月に名古屋鉄道に合併された後も、地域住民や、谷汲山華厳寺参詣客の足として活躍してきたが、沿線人口の減少やモータリゼーションの進展には勝てず、平成13年9月30日限りで廃線となった。そして谷汲線で活躍してきた「赤い電車」750形も同時に廃車となった。
同年秋、村民と鉄道愛好家有志で、赤い電車を谷汲に保存し、村に鉄道が走っていた証を是非残すと同時に、村おこしのシンボルとして活用、定期的にイベントを行い、村を活性化しようと、平成13年12月23日に「赤い電車を谷汲駅に保存する会」を立ち上げ、翌年1月19日、同会が発足。750形車両を保存するための20,000人をこす署名活動、募金活動を精力的に行い、同年6月、保存がほぼ決定。
7月3日に名鉄岐阜工場で搬入準備、4日未明に故郷の谷汲に向けてトレーラーに載せられて出発。7月7日、納車イベントとして「赤い電車祭」を開催。村民や関係者は「帰ってきた赤い電車」に拍手を贈った。
             (解説より)

 長良川鉄道 オハフ502
  (オハフ331527)

 
 
保存場所 : 谷汲口駅前  (Map Code : 477077881*74 )
   オハフ33形客車のあゆみ
オハフ33形車掌室付客車は、昭和14年から昭和18年にかけて346両、21年から24年にかけて35両製造された客車で全国各地で活躍した後、昭和59年10月樽見鉄道の発足にあたり、当時の国鉄から3両購入しレールバスと同一色に模様替えし、オハフ500形と名付けて運行された。
平成2年3月老巧化のために営業運転を終え、そのうちの1両を平成2年5月谷汲村へ寄贈され展示している。
現在の車体色は、昭和初期の色に復元したもので、赤のラインに白線3本は三等客車を示し、当時は一等車・二等車とあり特別料金が設定されていた。
   (解説より)
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