北海道 枝幸町
 歌登町営軌道 8tDL
 
 保存場所 : 健康回復村 (Map Code : 571137111*81 )
   軌道小史
軌道の歴史は、昭和二年北海道第二期拓殖計画の樹立に始まる。 翌三年四月、雪解けを待って起工された拓殖軌道は、四年十二月小頓別から上幌別六線市街まで19kmが開通し、軌道時代の幕開けを告げた。
五年九月に至り、枝幸までの16.15kmも開通し、小頓別〜枝幸間35kmの拓殖軌道が完成したのである。
しかしながら、この最初の軌道は機械力でなく、レールの上を馬がトロッコを引いて走る、いわゆる馬鉄であった。
その後、志美宇丹、本幌別へと軌条も伸び、昭和十年には総延長58kmに余り、小頓別〜枝幸間は動力も馬力からガソリンカーへと成長した。そうした中で、志美宇丹線のみは、実に昭和三十三年までの二十五年間馬鉄による運行を続けた。
拓殖鉄道は終戦とともに、簡易軌道と改められ、その後実質的な経営も村に任されるようになるが、トラックの出現等により利用率の低下を招き、昭和二十五年には、歌登〜枝幸間と十二線〜本幌別間の運行を中止した。
昭和二十七年頃からは、このような困難な状況の中で、軌道の冬季運行を続けるため、住民は一戸一名づつスコップと手弁当を持って軌道除雪に出勤した。 このように当時の人びとは自分達の生命線を守るため、このような奉仕活動を毎年数回づつ繰り返した。
昭和三十七年の町制施行の年には、歌登〜小頓別間と歌登〜志美宇丹間をディーゼルカーで結ぶが、マイカー時代の到来とともに、次第に収支は逆転し、着々と工事を進めつつあった美幸線にその将来を託して、昭和四十五年十一月、四十年に渡る軌道の歴史に終止符を打ったのである。(歌登町史より抜粋)
このディーゼル機関車は、昭和三十年代後半から歌登・小頓別間を、原木・製材・チップ或はデンプン等の産物を満載した四〜五輌の貨車を牽引して走った。
料金は、小頓別まで19kmが4t貨車貸切りで1500円ほどであった。
(解説より)
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