鳥栖操車場記念碑
  
碑の背景
コメント
 鉄道における貨車による貨物輸送では、貨車毎に行き先が決まっているため、要所要所で貨車を行き先の方面別に編成する作業が必要であった。 この作業を行う場所が操車場であり、1980年には全国で150あった。 操車場は扱う貨車の両数等で3ランクに分けられていたが、鳥栖操車場は全国で31あった最重要ランクの本社指定編成駅の一つであった。 操車場は貨物輸送が貨車主体から直行輸送のコンテナー主体となった事により逐次、廃止され、広大な跡地は再開発が行われている。
 鳥栖操車場は鹿児島本線と長崎本線の分岐点に位置し、碑文にもある様に42万平米の敷地を持つ有数の操車場であったが、1984年2月にその機能を停止した。 跡地にはJリーグのサガン鳥栖のホームスタジアムとして知られている鳥栖スタジアムが建設されている。

写  真
基本情報


所 在 地 : 鳥栖市京町709
MapCode : 37 737 475*58
建 立 日 : 2004年 9月18日
建 立 者 : 鳥栖市
       日本鉄道OB会鳥栖支部
種   別  : 跡地碑
撮 影 日 : 2011年11月 3日


碑  文  大正14年七月、この地に鳥栖操車場を開場し、昭和十九年の大規模拡張を経て、九州貨物輸送の拠点として発展し、活気に満ち溢れた場所でした。
 全盛期の操車場は、四十二万平方メートルの敷地面積を有し、一日当たり二千両以上の貨車を行先別に仕分けるハンプ操車が行われていました。
 また、機関区は東洋一を誇る炭積機及び転車台を保有し、出入りする機関車は一日当たり数百台に及び、貨物列車の発着本数は上り下りを合わせて約九十本を下らず、この地は、二十四時間眠らない貨物輸送中継基地の役割を担っていました。
 当時、街には鉄道病院、鉄道学園、物資部、職員宿舎等があり、約五千人を超える鉄道職員がこの地で働き、鳥栖は操車場・機関区と共に栄えた鉄道の街でした。
 しかし、昭和四十年代に入ると、モータリゼーションの隆盛に伴う輸送方法の変換等により鉄道輸送の衰退が始まり、昭和五十九年二月、鳥栖操車場は操車場としての使命を終えました。
 鳥栖市市制施行五十周年を機に、鳥栖操車場・鳥栖機関区があったこの地に記念碑を建立し、後世に残すこととしたものです。
        平成十六年九月十八日
        鳥  栖  市
        日本鉄道OB会鳥栖支部

     操車場のあらまし
  鳥栖駅開業  明治22年 12月
  操車場開設  大正14年  7月 (昭和19年改良)
  操車場面積  42万平米
     最  長   3,836米
     最大幅     310米
     線路延長  66,669米
  機関庫開業  明治39年 11月
     機関車配置 30両
     最大配置  62両(昭和39年 1月)
  鳥栖地区
     国鉄職員数  最大職員数 5,208名
              (非現業  2,179名)
              (現 業  3,029名)

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