鉄道「安芸線」の由来
碑の背景
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 土佐電気鉄道安芸線はJR土讃線の後免駅から安芸駅を結ぶ26.8kmの鉄道であった。 この鉄道は高知鉄道の手により1924年12月8日後免町〜手結間11.8Kmで営業を開始した。 1925年12月5日に省線高知線が高知〜後免〜土佐山田間を開業させた事から、高知鉄道は1926年4月に後免町〜後免(国鉄連絡駅)間0.96kmを伸延させた。
1925年には手結〜安芸間4.1kmの延伸に着手し、翌年4月に開通させるとともに、同年6月には省線高知駅への乗り入れを果たした。 
 1949年には直流600Vで電化され、1954年には軌道線の車両を使用して、後免町駅から軌道線経由で高知市内への直通運転を開始したが、1974年4月1日に安芸線は全線廃止となった。
写  真
 
基本情報

 所  在  地 : 安芸市東浜
           土佐電鉄バス安芸バス停
 マップコード : 335 287 666*31
 建  立  日 : −−−
 建  立  者 : −−−
 種      別 : 跡地碑

 撮  影  日 : 2015年 3月16日
碑  文
(右下部分)
 当地は鉄道安芸線の終着駅として安芸駅の建物が建っていた場所である。
 高知鉄道株式会社社長野村茂久馬(安芸郡奈半利町出身)は、「安芸線は将来四国循環海岸鉄道の一部となる交通上重要な路線であり、また、これは安芸線開通によってはじめて生きる事業である。営利を離れ、社会奉仕事業として敢然と立ってこの困難な事業を引き受ける。」と安芸への鉄道延長を決意し、一九二九(昭和四)年四月一日経済恐慌による不況の中、手結−安芸間の鉄道建設に着手した。「一年以内に安芸線を完成させよ。」との野村社長の指令のもと、二期線(手結−安芸間一四・一Km)の工事が始まった。一期線(御免−手結間一二・七Km)は一九二四(大正十三)年十二月に既に開通しており、二期線は安芸郡の人々が待ち望んでいた工事であった。そして、当時の技術力では通常二年以上はかかると言われたこの難工事をわずか一年で完成させてしまったのである。
 一九三〇(昭和五)年三月末、鉄道安芸線(後免−安芸間二六・八Km))は全線完成し、初めて安芸を蒸気機関車が走ることになった同年四月一日、鉄道沿線は一目列車を見ようとする住民で文字どおり黒山の人だかりとなった。安芸駅はこの二期線工事と並行して建設され木造洋瓦葺き平屋建て約二〇〇uの駅舎は都会風で、安芸郡内の建築物としては当時非常にしゃれた建物であった。
(中上部分)  一九四一(昭和一六)年七月一二日、国策により高知鉄道株式会社は土佐電気鉄道株式会社から後免駅以西の電車軌道事業部門を譲り受け、また土佐バス株式会社をも吸収合併し、土佐交通株式会社と改称した。しかし、鉄道安芸線の経営は相次ぐ戦争の影響で燃料不足となり、戦後も物価の高騰で採算がとれず赤字はかさむ一方であった。
 一九四八(昭和二三)年六月三日、土佐交通株式会社は資産・負債一切を南海鍛圧機株式会社に引き継ぐ格好で合併、南海鍛圧機株式会社社名を明治三六年七月八日創立当時の「土佐電気鉄道株式会社」と復旧改称した。
 合併後の土佐電気鉄道株式会社が取り組まなければならない最重要課題は、経費節減とスピードアップを図るための鉄道安芸線の電化であった。一九四七(昭和二二)年七月から一ケ年間に列車の一〇分から二〇分の遅れは一三三三回、三〇分以上の遅れは九三一回列車取消は二六一回にものぼった。 朝早く安芸を出発した列車が翌日後免に着くいわゆる泊まり込み列車が出現したのもこの頃である。
 しかし、占領下の□□は何をするにもGHQの許可が必要であったため、合併前の一九四八(昭和二三)年三月、土佐交通株式会社名義で電化の工事施行許可申請書を提出していた。申請を受けたGHQでは、早速高知軍政部に対して意見を求めた。その結果同年七月二三日、高知県下で初めて公聴会が開かれることになった。当時の県の担当者は「速やかに「パブリック・ヒヤリング(公聴会)を開け」というGHQの指示に、「その頃は公聴会などというものはなく、今まで聞いたこともない言葉に面食らった。」という。公聴会の結果は電化の促進を支持する声が圧倒的に多く、GHQ高知民生部長のアクセルソン中佐は電化工事についての支援を約束した。
 電化工事は第一工区(後免−手結間)が一九四九(昭和二四)年四月一〇日竣工、第二工区(手結−安芸間)は同年七月八日に竣工し、七月二〇日安芸駅前広場で全通式を行った。電化完成により、客車の運転回数は大幅に増え、後免−安芸間の所要時間はこれまでの一時間四〇分が半分の五〇分に短縮された。
(左下部分)  鉄道での輸送人員は、後免−手結間が開通した翌年の一九二五(大正一四)年は約五五万人、安芸まで全線開通した一九三〇(昭和五)年には約八四万人を記録した。その後は六〇万人から八〇万人の間で低迷を続けたが、電化された一九四九年からは安定した伸びを続け、一九六三(昭和三八)年には約三二〇万人を記録した。しかし、その後は急速な車の普及により鉄道の利用者は減少の一途をたどり、廃線の前年には一三一万人となっていた。
 鉄道安芸線は、国鉄(現JR)阿佐線に道を譲ることになり、一九七四(昭和四九)年三月三一日の運行をもって廃止と決定され、三月二七日から三月三一日までの五日間さよなら電車と称して花電車を運行、沿線住民に最後の別れを告げた。これにより、一九二四年一二月から県民に利用されてきた私営鉄道安芸線は半世紀にわたる歴史の幕を閉じた。
 鉄道安芸線の終着駅は、レール・プラットホーム等が取り払われ、安芸駅舎はバスの待合所として市民に利用されてきたが、建築後約六五年を経過しており老巧化が著しく、一九九五年(平成七年)十一月末、永遠にその姿を消すこととなった。

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