大和田建樹詩碑 |
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碑の背景 コメント |
大和田建樹は1857年に宇和島で生まれた。 幼少の頃から神童として知られており、14歳の時には藩公に四書を請進した。 その後、広島外国語学校で英語を学び、1879年には東大の講師、1886年には高等師範学校教授となった。 1891年に教授の職を辞し、文筆家になった。 1900年に発表された「鉄道唱歌」は第1集東海道編(66番)、第2集山陽・九州編(68番)、第3集奥州・磐城編(64番)、第4集北陸編(72番)、第5集関西・参宮・南海編(64番)、第6集北海道編(40番)の6冊に分かれており、全部で374番まである。 宇和島駅前に建てられたこの碑は四角形で南面には大和田建樹詩碑、東面には散歩唱歌の秋10番、西面には鉄道唱歌の1番、北面には大和田建樹の略史が刻まれている。 大和田建樹の歌碑はこの宇和島駅前のものの他に、新橋駅前にも建てられている。 |
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写 真 基本情報 |
所 在 地 : 宇和島市錦町 宇和島駅前 MapCode : 176 188 551*57 建 立 日 : 1965年10月 建 立 者 : −−− 種 別 : 歌碑 撮 影 日 : 2015年 3月17日 |
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碑 文 | 南面 大和田建樹詩碑 東面 わがふる里の城山に 父と登りてながめたる 入江の波の夕けしき 忘れぬ影は今もなを 北面 大和田建樹は安政四年(一八五七)宇和島 丸之内藩士の家に生まれた 少年時代藩校に入って国学漢学を学び のち広島に遊学して英学を修めたが早 くから秀才のきこえ高く十四歳にして 既に藩公の前で四書の進講をした二十 二歳のとき上京して更に国文学の研究 を重ね東京大学講師高等師範学校教授 の職を勤めた 中年以降は専ら著作にたずさわって謡 曲通解日本大辞典等幾多の名著を出し 中央文壇に名声を博したその生涯を通 じて書き続けた文学書歌集紀行文の■ は百■巻におよび明治文学史上に多彩 の業績を残したが一面優雅流麗な唱歌 作品もまた多くなかにも鉄道唱歌散歩 唱歌故郷の空などはひろく学童の間に うたわれて当時は老若ひとしく愛唱全 国を風靡した観があったこれらの歌詞 は今なお国民大衆に親しまれている 明治四十三年(一九一〇)五三歳で没し た 昭和四十年十月 設 計 清家 清 題 字 十河 信二 唱歌揮毫 安信 能成 撰 併 書 高畠 龍太郎 西面 汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入り残る 月を旅路の友として |
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