大阪大空襲     
京橋駅爆撃被災者慰霊碑

  
碑の背景
コメント
大阪市内への空襲は昭和20年になって前後8回行われた。 空襲が有ったのは3月14日、6月1日、6月7日、6月15日、6月26日、7月10日、7月24日、そして8月14日の8回である。 最初の4回は焼夷弾が主体の爆撃であったが、5回目からは軍需工場への爆撃が主体となった。 京橋駅が被災したのは最後の爆撃る。 京橋駅に空襲が有った時、現環状線には上下2本の列車が入線したところで、居合わせた多くの乗客は環状線の影となる片町線ホームに避難していた。 ここに、高架橋を突き抜けて落下した1トン爆弾が爆発し、多数の犠牲者が出てしまった。 京橋駅爆撃の翌日、日本はポツダム宣言を受諾し終戦となった。

写  真
基本情報


所 在 地 : 大阪市都島区片町二丁目
            京橋駅
MapCode : 1409074*38
建 立 日 : 1947年 8月14日
建 立 者 : 森本栄一郎
種   別  : 慰霊碑
撮 影 日 : 2010年 1月19日


碑  文     大阪大空襲  京橋駅爆撃被災者慰霊碑
太平洋戦争終戦前日の昭和二十年八月十四日、大阪は最後の大空襲を受けた。 B29戦略爆撃機は特に大阪城内の大阪陸軍造兵廠に対し、集中攻撃を加えたが、その際、流れ弾の一トン爆弾が四発、京橋駅に落ちた。 うち一発が多数の乗客が避難していた片町線ホームに高架上の城東線(現、環状線)を、突き抜けて落ちたため、まさに断末魔の叫びが飛び交う生き地獄そのものであったという。 判明している被爆犠牲者は二百十名であるが、他に無縁仏となったみ霊は数え切れなく、五百名とも、六百名とも言われている。
当時、地獄のような惨状を目撃した大東市の森本栄一郎氏が、あまりの悲惨さに胸を痛め、その霊を弔おうと昭和二十二年八月十四日、自費で建立された慰霊碑である。
   納経塔
戦後、被爆犠牲者を弔う法要が毎年八月慰霊碑の前で鴫野・妙見閣寺によって行われているが、三十七回忌を機に写経による供養と、遺族及び、当時駅での体験者、大阪大空襲の体験を語る会会員他多数の市民からの基金、協力を得て建立した納経塔である。
    昭和五十八年二月  国鉄京橋駅長


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