乕列拉病死者供養塔
   
碑の背景
コメント
1880年に出された太政官布告34号ではコレラ、腸チフス、発疹チフス、ジフテリア、赤痢、種痘を六種伝染病と定めている。 この布告が出される前年の189年にはこれらが大流行し105,637名が亡くなっている。 信越線工事が行われていた1886年にも全国でコレラが大流行し、この年は感染者155,923名、死者108,405名となった。 コロナはコレラ菌で汚染された飲食物を摂取することによって罹患する経口感染症であり、感染者の排泄物の取り扱いには注意が必要である。 副碑に「飯場が温床となって・・・」と書かれているが、吉田組の飯場のトイレ環境など問題が多かったのではないかとおもんわれる。

写  真
基本情報


所 在 地 : 長野市豊野町豊野
MapCode : 54 470 723*16
建 立 日 : 明治23年4月
建 立 者 : 吉田組
種   別  : 慰霊碑
撮 影 日 : 2023年10月 1日


碑  文 明治十九年中死亡
仝 廿三年四月   吉田組
副  碑
(市の説明文)
明治19年(1886)、コレラ病が全国的に流行した。 この時全国では十万人以上が病死、死亡率は70%であったという。
当時の浅野村では信越線敷設工事の飯場が温床となって大流行し、村人をはじめとして工事に従事していた吉田組(新潟県)の工夫16名が感染して死亡した。 後、明治23年(1890)4月、犠牲者の慰霊のため、吉田組によってこの供養塔が建立された。 裏面には死亡した16名の氏名が刻まれている。

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