供養塔
   
碑の背景
コメント
長野駅から上り方向に500m程行った、跨線橋の所にこの碑は建立されている。 
信越線は明治18年(1885)に高崎から横川まで開業し、翌年には直江津〜関山間も開通した。 明治21年には関山〜長野間が開業しこの碑がある長野にも鉄道が開通した。 この信越線の建設工事が行われていた明治19年(1886)に日本ではコレラが大流行した。 この様な時期に建設された信越線であるが、当時は人海戦術での建設であり、死傷者・病死者が多く発生している。 この碑が建立されたのは明治20年(1887)9月であり、信越線が関山から長野まで開業する前年のことである。 通常、建設工事の慰霊碑は全てが完了した後で建立されるが、この碑は完了の前年に建てられている。 この事から多くの方が亡くなられたことが偲ばれる。

写  真
基本情報


所 在 地 : 長野市中御所1
MapCode : 54 187 527*01
建 立 日 : 1887年9月彼岸
建 立 者 : −−−
種   別  : 慰霊碑
撮 影 日 : 2023年 9月30日


碑  文 供養塔碑                              
今也宇内鐡道之設殆莫不同焉一瞬千里不啻計便□益富
強之基亦在于此也我信越之境頃年□此?□懸崖□□□
而職工丁壮觸嶮蹈危為被重傷或□死者數十人加之客□
罹虎疫斃者幾百人嗚呼哀哉今茲工夫主領□□憂□□地
在各□而他日或□荒廃建高顯於偏都祈冥福余在兼務職
嘉此偉業因記其梗概銘曰              
    無常迅速   霜露石火   光明遍照        
    攝取不捨   順流櫓棹   乗大願□        
    三輩九品   託生寶蓮                 
 明治二十年九月到彼岸日                  
    妙法院門跡兼善光寺大勧進大僧正寂順撰並書   

副  碑   供養塔の由来
 この碑文の意味は、今や国内いたるところに鉄道建設が行われており遠い所へもまたたく間に行けるということは単に便利というだけでなくわが国の富強の基でもある。 この信越の堺にも先年からこの鉄道建設の仕事が始まり、けわしい山を掘り抜きそのため工事従業者達が危険におかれ重傷者・圧死者の数が数十人に及んだ。 しかもその前年はコレラが流行し疫死した者が幾百人いるかしれないなんと悲しいことではないか。
 こうして鉄道工事で亡くなった人達はその所々に葬られているが時が過ぎれば荒れ果てて世の人達にも忘れ去られてしまうだろうとこの工事従業者の使用人達が心配して犠牲者達の功績を永く世に伝えその霊を弔うために仏都善光寺の地にその碑を建てて冥福を祈ることになった。
 私は丁度京都の妙法院門跡と善光寺大勧進住職を兼ねていて、この偉大な仕事を大変嬉しく思いこの深い因縁のしるしにこの事のあらましを書いたのである。 このように寂順大僧正の犠牲者の霊に対する極楽往生の願いが込められている。
 明治19年、20年は直江津、軽井沢間の鉄道工事の真最中であった。 今のような土木機械もなくただ人の手によるほかやり様のなかった当時の苦労、そのうえ悪病の流行とあってはまさにその惨状眼をおおわしいめるものがあったであろう。 その消息はよくこの碑文が物語っている。


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