五島慶太翁碑 |
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碑の背景 コメント |
五島慶太は東急グループの社長として知られているが、碑の裏側に書かれた碑文を読んだだけでは、飯山線t五島慶太の接点が判らなかった。 碑の右側にある四角い副碑により飯山線の敷設認可、全通後の国有化と言った飯山線の節目での五島慶太の中央における立ち位置が書かれており、興味深く読めた。 飯山線の敷設申請時には鉄道院監督課長として、戦時下の飯山線国有化の際には運輸通信大臣として印鑑を押す立場に居たことが読み取れる。 |
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写 真 基本情報 |
所 在 地 : 飯山市大字飯山枡ノ浦 MapCode : 293 013 882*35 建 立 日 : 昭和35年8月 建 立 者 : 五島先生遺徳顕彰會 種 別 : 顕彰碑 撮 影 日 : 2023年10月 1日 |
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碑 文 | 奉謝鴻恩 明徳院殿慶愛天道剛徹毅翁大居士霊位 昭和34年8月14日御逝去宝壽79 大正6年5月私設飯山鉄道創立に對シ格段ノ援助ヲ蒙ル 昭和19年6月運輸通信大臣御時代ニ國有鉄道ニ編入セラル 五島先生遺徳顕彰會 代表者 牧野長蔵 |
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副 碑 | 碑の由来 この碑は、飯山線の前身であった飯山鉄道株式会社豊野・飯山間敷設の認可申請に際して、蔭で援助の力を尽された五島慶太氏の恩顧を顕彰するために、会社設立当時の関係者を代表して牧野長蔵氏等が昭和35年8月建立したものである。 明治末期から大正初期の頃は全国的に私設鉄道の敷設が盛んに計画され、当北信地方でも数社の鉄道敷設が計画された。しかしそのいずれもが、認可を得られなかった。 こうゆう厳しい状況の中で、飯山鉄道豊野飯山間の敷設が大正6年2月申請され、多くの私設鉄道の敷設申請が却下されてゆく中で、飯山鉄道は同年5月認可されたのである。 この認可については、当時宮城県知事であった飯山町出身の寺田祐之氏のあっせんによって、鉄道院監督課長の五島慶太氏の多大な尽力があったと云われている。 飯山鉄道は、大正10年10月20日豊野・飯山間が開業され、その後逐次延長されて、昭和4年9月1日十日町まで全通した。しかし当初から経営が困難で、昭和7年以降何回か政府に買収を請願したが、入れられなかった。 たまたま太平洋戦争が激化し、激増する軍需輸送に対処するために、戦時陸運非常体制の強化策がとられ、その一環として、信越線・上越線強化策がとられ、その一環として、昭和19年6月1日国鉄に買収されて、現在に至ったのである。 飯山駅開業70周年を迎えるにあたり、地域の輸送動脈として、愈々の近代化発展を願うと共にこの碑を飯山線史跡の一つとして、永く保存顕彰しようとするものである。 平成3年10月13日 飯山線開業70周年記念実行委員会 |
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