笹子隧道記念碑
  
碑の背景
コメント
関東と名古屋を結ぶ第2のルートとして中央線が計画された。 このルートで最難関工事は笹子隧道工事である。 笹子隧道の区間はラックレールを用いたアプト式とトンネル方式が検討されていたが、アプト式は輸送力等で軍が強力に反対し、トンネルを掘ることになった。 しかしながら、当時は1600mを越えるトンネル工事は避ける傾向にあり、4000mを超える笹子トンネルは前代未聞の工事となった。 1896年12月にトンネルの両側から工事が始まった。 この工事にあたってはトンネル工事用の自家水力発電所を設け、この電気で坑内の電灯や空気圧縮機の運転、工事用電気機関車の導入などに活用した。 これにより当初計画では8年とした工期を1902年10月に6年で完成させた。 トンネルの延長は4656mであった。 この長さは1931年に清水トンネル(9702m)が完成するまでは日本で最も長いトンネルであった。 

写  真
基本情報


所 在 地 : 大月市笹子町黒野田
         笹子駅
MapCode : 161669109*03
建 立 日 : 1905年春
建 立 者 : −−−
種   別  : 達成碑
撮 影 日 : 2007年 5月31日
 
碑右にある
説明文
笹子隧道道記念碑建設の由来
 笹子隧道は明治29年(1896年)10月に着工し、明治35年(1902年)11月に完成した。 全長4,656mは、当時東洋一の鉄道トンネルとして注目された。 また、峻岨を貫く大工事は、当時の技法からも驚嘆の的であった。 就中、山梨県の交易の変革を遂げる第一歩としての意義は大なるものであった。
 この度、記念碑が舞鶴公園より笹子駅前に移転することとなり昔日を回顧しつつこの一文を記す。
   平成5年(1993年)6月29日   大月市長 秋山重友

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