交流電化発祥之地
碑の背景
コメント
1955年に仙山線が交流電化され、実用化試験が行われた後、1957年10月に北陸線田村-敦賀間が幹線として初めて交流で電化されたのを記念してこの碑は建立された。 北陸本線の交流電化区間は1962年に米原−田村間が交流電化されると共に、北陸トンネルの開通により電化区間は福井まで伸延した。 さらに1963年には金沢、1964年には富山、1965年9月には糸魚川までが交流により電化された。 1969年糸魚川から直江津までの電化にあたっては直流が採用され、北陸本線は前後を直流区間で挟まれる格好となった。 北陸本線の交流電化区間はこの時が最長で、この後は関西圏の直流電車の運転区間延長の為、1991年には長浜までが直流に変更となり、2006年9月には最初の感染交流電化区間である敦賀まで直流化された。 この直流化により、最初に幹線で交流電化された区間は全て直流化され交流電化発祥之地碑は直流電化区間に残される事となった。

写  真
基本情報


所 在 地 : 敦賀市木ノ芽町
        敦賀機関区構内
MapCode : 192759843*8
建 立 日 : 1958年5月17日
建 立 者 : −−−
種   別  : 発祥碑
撮 影 日 : 2009年 8月22日


碑  文  由来 
世界最初の六十サイクル交流電化による鉄道動力革命の成功を記念して近代動力の中心敦賀機関区に碑を建立するに当りわが国鉄交流電化発祥の由来を記す フランス国鉄が試験に成功した五十サイクル交流電化の新しい技術が矢山康夫によってわが国鉄に紹介されたのは一九五二年(昭和 廿七年)春である 一九五三年八月総裁長崎惣之助の提唱により交流電化調査委員会が発足 副総裁天坊裕秀・技師長藤井松太郎・副技師長関四郎・調 査役矢山康夫らを中心に広く各界の学識経験者の協力を得て調査が開始された 一九五四年九月実地試験線区として仙山線が選ばれ一九五五年八月十日最初の交流機関車日立製直接形ED四四一が決定  さらに三菱製整流器形ED四五一を加えての総合試験が行なわれ交流方式の優位が明らかにされた 一九五三年三月同委員会は商用周波数交流電化がわが国においても有利であると報告 総裁十河信二・技師長島秀雄らによって交流電化の採用が決断されその試金石として北陸線米原敦賀間の幹線に急遽実施することとなった 以来一年六か月にわたる国鉄各機関および工事関係者必死の努力により一九五七年(昭和三十ニ年)十月一日深坂新線の開通と同時に六〇サイクル交流機関車ED七〇形による交流電気運転が世界注目のうちに開始され商用周波数による高電圧の利点と牽引動力して優れた性能をいかんなく発揮 わが鉄道動力近代化の魁けをなしたのである その衝に当った指導の責任者総裁十河信二・技師長島秀雄・常務理事藤井松太郎・同並木裕・運転局長大塚茂・電気局長関四郎・工作局長岡益雄・中部支社長竹内外蔵 金沢鉄道管理局長矢山康夫・大阪電気工事局長武藤悌三ならびに機関車の製作会社三菱電機・新三菱重工の名を刻んで交流電化の成功を永久に記念したい
 アジア各国鉄道首脳者交流電化視察団を迎えるの日
        一九五八年五月十七日建立
               中浜海鳳書


 戻る

inserted by FC2 system