北陸隧道碑
碑の背景
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北陸本線敦賀―今庄間は1896年に開業した。 この区間を直線で結ぶと途中に木ノ芽峠が有るため、北陸本線は険しい山地を避けて海側に経路をとり、山中峠を越えることとなった。 しかしながら、この経路でもスイッチバック4カ所・25‰の勾配・12ケ所のトンネルが続く難所となった。 この為1950年台後半になると、この区間の輸送力が北陸本線のボトルネックとなり、北陸地方での滞貨が目立つようになった。 これを改善するために、在来線に並べて複線化する案などが出されたが、最終的には木ノ芽峠の下を複線トンネルで貫通する事となった。 これにより完成したのが北陸トンネルであり、延長13.87kmは1972年に山陽新幹線六甲トンネルが完成するまで国内で最も長いトンネルであった。 このトンネルが複線・交流電化で開通したことにより敦賀―今庄間は1時間以上の所要時間短縮が実現した。

写  真
基本情報


所 在 地 : 敦賀市深山寺
      北陸本線・北陸道交差部
MapCode : 192821803*87
建 立 日 : 1962年6月10日
建 立 者 : −−−
種   別  : 開通・開駅碑
撮 影 日 : 2009年 8月22日


碑  文 北陸本線輸送需要の急増は各所に隘路を 生じ 国鉄は昭和三ニ年米原 富山間の複 線電化工事に着手した わけても敦賀−今庄 間は全線中最大の難所であって この区間 の線路増設 勾配改良 電化の三問題を一挙 に解決し、輸送力の抜本的増強と経営の合理 化を計るため 延長一三粁八七〇米の複線型 隧道を新設することになった。 本隧道は 世界第五位 東洋第一位の長大隧道で 国鉄総裁十河信二より北陸隧道と命名 された
工事は昭和三ニ年一一月岐阜工事局所管 敦賀出張所統括のもとに四工区に分け第一 工区は敦賀方 第四工区は今庄方 ■■ 中間の第二工区には葉原斜坑(長さ四七〇 米) 第三工区には板取竪抗(深さニ三〇 米)を設けることとして 全区間を全断面 掘削機械化施工によって工事を進め四箇年 て完成するのを目途に着工した しかし 木ノ目峠を含む■■■■■■■■■随所 に断層と破砕帯を包蔵 地下水の噴出 土砂の崩落等が■■■■昭和三四年一月 には各工区と■期を同じくして地質に応じた 特殊な工法に変更を余儀なくされた 本隧道 を嚆矢に東海道新幹線等複線型隧道の標準 工法となった水抜き■■目的とする底設導抗 先進上部半断面掘削工法を■■め その主 たる■ので 二十一種類を数える難工事で あった 特に第一工区では樫曲斜坑(長さ 一一二米)を増設 工費の節減と工期の 短縮をはかった
 昭和三五年二月ニ五日第三・四工区間同 年七月三〇日第一・二工区間がそれぞれ高 精度をもって貫通 三六年七月三一日最も 困難な第二・三工区間も高低わづかに三糎 左右もまた七・七糎という微少な誤差で貫 通し 三七年三月ニ〇日には最後の道床 コンクリートの打設と軌道接続を終り 総工 費八一億円をもって完工した この間三四年八月 台風による第二工区の本坑内■ 三万■の浸 水 三五年九月第二工区の三五〇〇立米の 大崩落を伴った地下水毎分一〇数屯の噴出 等大小幾多の変災に遭遇しまた複雑な地質の 変化にも拘らず最高の技術を盡くし 創意と 考案 決断と即行 全従事員の忍耐と一致 協力等によって大きな困難を克服し 短時 日に最大の成果をもたらした関係者の血の にじむような努力は高く評価されるであろう


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