前代議士庭田次平君之碑
碑の背景
コメント
現在の北陸線は明治15年に東海道線の支線として長浜―柳ケ瀬間で開業した。 明治25年、鉄道敷設方が公布され、この支線と敦賀から金沢を経て富山に至る鉄道を敷設することが予定された。 明治31年には金沢まで延伸したが、これに先立つ明治29年6月富山ー金沢間の線路実測に着手した。 同年10月には実測を終え、11月から着工のはこびとなった。 工事は2年で終わり、明治31年11月1日に金沢ー高岡間が開業した。 
庭田次平は安政5年(1858年)に津幡町南中条で生れ、明治19年から21年まで石川県会議員をを務めた。 その後、中条村長、河北郡会議員、同議長等を歴任した。 明治30年には県会議員に再任された。 この時期に北陸線の線路実測が行われたが、庭田次平は南中条に停車場を設置することに尽力し、北陸線の高岡延伸と同時に津幡駅が設置されることとなった。 
   
写  真
基本情報


所 在 地 : 津幡町字南中条チ7
        津幡駅前
MapCode : 41 867 507*54
建 立 日 : 1903年12月
建 立 者 : 
種   別  : 顕彰碑
撮 影 日 : 2019年 8月18日


碑  文 左側にある副碑
     津幡駅と庭田次平氏の由縁
 明治三十一年(西暦一八九八年)十一月一日国鉄北陸本線金沢ー高岡間が開通した その建設に際し津幡駅の用地買収が難航を極めた
 このとき中条村在住の石川県議会議員庭田次平氏が献身的に協力 自己の所有地や他の地主の土地にも代替地を斡旋して確保 三三〇○○平方米余の駅用地を提供した
 明治三十三年国鉄北陸本線はこの駅で七尾鉄道(現在の七尾線)と接続 津幡駅は能登方面への玄関口として位置づけられることとなった
 庭田氏は明治三十五年八月衆議院議員に当選したが不幸にも病気に倒れ明治三十六年三月五日逝去 享年四十六歳 氏は生前殖産興業にも意を注ぎ山野を開拓して凶作時の農民救済にも努めた
 中条村民はこれらの偉業を讃えゆかりの地に記念の碑を建立したものである

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