新潟駅繁昌記 |
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碑の背景 コメント |
この碑は新潟県民が首都圏と短時間で結ばれることをいかに切望していたかを示す内容となっている。 碑文は上越新幹線の開通を祝う内容であるが、新幹線が大宮まで暫定開業したのは1982年11月15日で、碑が建立されたのは新幹線開業よりも2か月前となっている。 この為、東京までの所要時間は書かれていないが、暫定開業時、新潟・大宮間の速達タイプでの所要時間は1時間45分となり、それまでの半分以下の所要時間となった。 なお、上越新幹線が上野まで開業したのは1985年3月、現在の様に東京まで延長されたのは1991年であり、東京都内との直通運転には更に数年が必要であった。 |
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写 真 基本情報 |
所 在 地 : 新潟市中央区花園一丁目 新潟駅前 MapCode : 32 847 864*26 建 立 日 : 1982年 9月19日 建 立 者 : 新潟西ライオンズクラブ 種 別 : その他の碑 撮 影 日 : 2014年10月23日 |
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碑 文 (表面) |
新潟駅繁昌記 新潟県の歴史に新しい一ページを画する日、それは新 幹線が開業した時である。 しかしこの輝かしい門出を迎 えるまでには幾多の曲折があった。 明治三十七年五月三日 いまは弁天町となっている地 に新潟駅が開業し、その翌三十八年八月に始めて新潟− 上野間に直通列車が運転され、その所要時間は十五時間 五十分であった。 それから七十余年を経て、この新幹線 駅から首都までの運転時間はわずか百分余という短時間 で結ばれることとなった。 この輝かしい歴史をたどってみると、まず最初に新潟 県に鉄道が開通したのは、直江津−関山間で明治十九年 八月のことであった。 さらに鉄路は関山から長野を経て 碓井の険を越え高崎に達し、上野に接続するようになっ た。 ついで同三十二年九月直江津−沼垂間が全通、同三 十七年には新潟まで開通し、ここに待望の首都との連絡 が完成した。 すなわち今の信越線である。 一方、新潟県が久しく要望していたのは、何といっ ても最短距離である上越線の建設であった。 しかしなが ら明治十年代にこれが最初に計画されたころは、谷川岳 の真下を貫き群馬県に出ることは技術的に至難であった。 その後も種々の計画がなされたが、上越線建設を決定し たのは大正七年の鉄道敷設法の改正が成立した時である。 かくて清水トンネルは同十一年始めて工事に着工した が誠に筆舌に尽くし得ない難工事であった。 湧水や落盤に 悩まされながら実に九年の歳月を費やし、年代代わって昭 和に入り、六年九月一日ようやく開通した。 これにより 新潟−東京間は飛躍的に短縮、わずか七時間十分で結ば れた。 その後、全線電化が戦後に完成し「特急とき」で 四時間連絡を実現しつつ新幹線時代を迎えたのである。 上越新幹線は昭和四十六年一月、鉄道建設審議会の答 申に基き建設が決定。 同年十一月工事が開始され、新潟 車両基地並びに新潟駅の工事も翌四十七年から相次いで 着手された。 これよりさき新潟駅は、昭和三十三年現在 地に地上二階地下一階の県内初の民衆駅として移転建設 されたが、この駅に追加工事が加えられ、同三十八年に 四階建て一部六階建ての駅ビルに増築された。 この駅舎 とは別に、新幹線のターミナルにふさわしい巨大な駅舎 が建設された。 その規模は長さ四百十メートル 巾三十 九メートル三階建ての堂々たるもので誠に新幹線時代の 象徴といえよう。 上越新幹線は豪雪に挑戦する世界最初の試みである。 この成功は日本海時代の幕開けとなるばかりでなく、遂 には雪国をも克服する希望の門出となるであろう。 いま 明治、大正、昭和の三代七十八年の歳月を経て、旧鉄道 は新幹線に進化し、さらに飛躍的な発展を遂げようとし ている。 我々はたしかなその足どりをここにとどめて、 永く後世に伝えたいと念じこれを建てるものである。 |
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(裏面) | チャーターナイト二十周年を記念し、これを建てる。 一九八二年九月十九日 ライオンズクラブ国際協会 新潟西ライオンズクラブ 題並びに撰文 同クラブ会員 風間久雄 書 三田養鶴 |
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