望欣台の碑 |
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碑の背景 コメント |
高島嘉右衛門は1832年江戸三十間掘で木材商兼建築請負業者の息子として生まれた。 1865年に横浜に出て建築業をはじめ、外国公館の建設により得た資金により外国人や政府高官が宿泊する旅館を建築し、そこに宿泊する人から得た情報をもとに下水道整備・高島学校創設・瓦斯燈設置など我が国で最初の事業を進めた。 鉄道関連の業績では汐留−桜木町間に鉄道が開通した際、現在の横浜・桜木町間にあった入江を一直線に埋め立てて鉄路を引いた事が挙げられる。 この埋立てにあたって嘉右衛門は埋立地内の線路用地・道路用地は国有としそれ以外の埋立地は自由に使用して良いと言う条件を得ることができた。 高島町と言う地名はこれに由来している。 1876年嘉右衛門は実業界からの引退を表明し、横浜港が見える高島台の屋敷での易学の研究に入った。 しかし、1892年に渋沢栄一に請われ、北海道炭礦鉄道社長に就任して北海道炭礦の立て直しに尽力をした。 この後東京市街電気鉄道社長を務め、1914年83歳で亡くなった。 |
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写 真 基本情報 |
所 在 地 : 神奈川区高島台 高島山公園 MapCode : 2209172*81 建 立 日 : 1867年12月 建 立 者 : −−− 種 別 : 顕彰碑 撮 影 日 : 2009年10月23日 |
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碑 文 | 高島氏偉志アリ正真之才智剛毅之志向偶維新ノ盛時ニ際會 感奮開化ニ勵精シ人才ヲ輩出スルハ學校ヲ興シ教育ヲ專ニス可シト自 ラ巨萬ノ金ヲ散シ碩學ノ教師ヲ海外ヨリ聘シ始テ學舘ヲ横濱ニ開ク 是吾邦ニ■テ洋學院ヲ設立スルノ先驅タリ故ニ官進歩首唱ノ賞状ヲ賜 ヘリ而貿易ヲ盛大ナラシムルハ銕道ヲ建築シ運輸ヲ便ニスル最急務ナレ ハ官ニ請ヒ神奈川ヨリ横濱間ノ海中ヘ一直線ニ銕路ヲ築造スルノ便且 益タル事ヲ揚言シ決然奮發シテ家産ヲ■盡シ現今高島町ノ銕路及 市街ヲ埋開スルハ氏ノ獨力ヲ以テ峻工スル處其他山ヲ崩シテ港ノ内外ヲ 埋メ瓦斯燈ヲ港中ヘ連絡シテ不夜ノ境タラシメ人民夜ヲ日ニ繼テ便益 ヲ得セシム此時 親臨アリテ ■感ノ勅ヲ賜ヘリ氏曾テ一派ノ易学ヲ 恃發ス進退擧動悉ク易占ニ據ラサルハナシ而テ功成身退ク聖賢ノ 訓戒ヲ反省シ近時神奈川薹上ニ一閑室ヲ設ケ之ニト居シ港内ノ 繁榮ト其事業ノ功蹟ヲ脚下ニ矚望シ獨欣然トシテ其心ヲ慰ス由テ 此薹ヲ號シテ望欣薹ト云爾 ■友 荒木政樹謹識 明治十年丁丑十二月 應索 桑門辨王書之 |
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碑 解 説 | 横浜市地域史跡 望欣台(ぼうきんだい)の碑 平成二年十一月一日登録 望欣台の碑は、横浜の都市成形期における恩人の一人である高島嘉右衛門(たかしまかえもん)を顕彰する碑です。 嘉右衛門は、高島学校などの洋学校の創設・経営や瓦斯事業、高島町埋立てなどの土木事業のほか、洋館の建築、港座(洋式劇場)の経営など多方面に貢献しました。 碑は、現在、高島山公園にありますが、もとは近くの高島邸にあったものです。 碑高 二八五・〇センチ 碑幅 一五〇・〇センチ 碑厚 三〇・〇センチ 平成三年三月 横浜市教育委員会 |
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