八高線 列車衝突事故
碑の背景
コメント
 八高線は単線の為、タブレットを持たせることにより駅間に複数の列車が居ない事を保証したうえで列車を出発させていた。 1945年8月24日7時頃の天気は暴風雨となっており、小宮・拝島間では信号故障が発生していた。 更に、両駅間の電話連絡も取れず小宮−拝島間は通信途絶の状態であった。 小宮駅では下り列車(蒸気機関車+客車5両)に対して、タブレットの代替えとして機関車に指導員を乗車させて、列車を出発させた。 一方、拝島駅でも上り列車(蒸気機関車+客車5両)に対して、小宮駅同様に指導員を機関車に乗車させて出発させた。 本来、指導員は駅間に1名と定められているが、両駅間の通信途絶により駅間の連絡が取られないままに2名の指導員が選任されてしまった。 この結果、2本の列車は多摩川橋梁上で正面衝突し、105名が死亡する事故となった。 
 下の写真にある二対の車輪は多摩川の堤防上に保存されているが、鉄橋横の河川敷には碑文と同一文章の看板が建てられている。(碑文の写真は碑文の下側に書かれている地図である)

写  真
基本情報


所 在 地 : 昭島市宮沢町3
MapCode : 23418857*28
建 立 日 : 2004年 3月
建 立 者 : 昭島市・昭島市教育委員会
種   別  : その他の碑
撮 影 日 : 2008年 7月23日


碑  文  太平洋戦争終戦からわずか九日目の昭和二〇年(1945)八月二四日午前七時四十分頃、ここ八高線小宮・拝島間の多摩川鉄橋上において、上り下りの旅客列車が正面衝突し、少なくとも一〇五名の方々が衝突による衝撃、あるいは多摩川の濁流に流され死亡する大惨事が発生しました。 日本鉄道史上でも有数の重大事故であるといわれています。 救助には、地域の警防団(現在の消防団の前身)や住民があたりました。 
 この事故は、折からの豪雨の中で発生したもので、犠牲者の多くは終戦とともに故郷に向かっていた復員兵や疎開先から自宅に帰る人々でした。
 鉄橋付近から発見された二対の車輪は衝突車両のものと思われ、事故を後世に伝えるために設置しました。
   平成十六年 三月    昭島市・昭島市教育委員会
  

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