軽便鉄道跡
碑の背景
コメント
 鉄道連隊は1896年に鉄道大隊として牛込で産声を上げた。 1907年に連隊に昇格するとともに津田沼に移転した。 翌年には第二大隊のみ、千葉に移転した。 
 碑文にもあるように1913年、第二大隊は千葉−四街道−山田台−八街−両国−三里塚間約50kmの鉄道を軌間600mmで敷設する大演習を行った。 翌年には千葉から八街までの区間は撤去され、八街−三里塚間は成田−三里塚−多古間を軌間600mmで営業していた県営鉄道に払い下げられ、千葉県営鉄道八街線として営業を始めた。
 この線では蒸気機関車4両、客車6両、貨車9両が使用され、1930年からはガソリン動車2両も使われた。 蒸気機関車は双合機関車(運転台を中心に、前後にボイラー、シリンダー、運転台がある)を切り離して1両を2両として使用されていた。
  
写  真
基本情報


所 在 地 : 八街市八街ほ
MapCode : 27593830*88
建 立 日 : 平成3年12月
建 立 者 : 八街市教育委員会
       八街市文化財審議会
種   別  : 跡地碑
撮 影 日 : 2016年 1月 7日


碑  文   大正二年(1913)九月八街地域周辺において陸軍鉄道連隊による鉄道敷設の大演習が行われた。 このとき敷設された線路は四街道・佐倉を経由し、沖・山田台・滝台・四木・笹引・六区・大東区・二区・朝日区を経て冨里・三里塚方面に達していたが、演習終了後朝日区以南を撤去、朝日区からこの地点を通り八街駅に達する路線を新設して大正三年五月から県営の軽便鉄道八街三里塚線に生まれ変わった。
  以後昭和十四年陸軍八街飛行場の計画にともない廃止されるまで、一日四往復、客車二、三両(一両の定員は七、八年)を連結した小型の軽便機関車がこの地点を東西に走った。
  八街三里塚間の所要時間は約一時間で三里塚の花見のころはとくににいわったという。
     平成三年十二月(平成二十三年八月修正)
      八街市教育委員会 八街市文化財審議会

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