川越町驛碑
碑の背景
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 川越市の市街地には西武線の本川越駅、東武鉄道の川越駅と川越市駅、JR川越線の川越駅と4駅がある。 これらの駅が出来た順は本川越:1895年、川越市:1914年、川越(東武):1915年、川越(JR):1940年の順である。 碑文にもあるように、国分寺からの川越鐡道(西武線)が1895年に開通した。 川越鐡道が開通して10年強、経過した1908年、根津嘉一郎などにより東上鉄道が計画され東京の巣鴨から仮免許が川越・東松山を通り群馬県渋川に至る路線の仮免許を受けた。 1912年には本免許となり、東上鉄道は1914年(大正3年)5月1日に池袋〜田面沢間で開業した。 
 この碑が建立されたのは東上鉄道が開通し、川越町駅が出来てから4年経過している。 普通、駅が出来たことを祝う碑は、開駅して直ぐに建てられているが、なぜ、建立まで4年かかったのか不明である。
 ちなみに、この碑の裏側には寄附した153名の氏名が刻まれている。

写  真
基本情報


所 在 地 : 川越市六軒町1−16
            六塚稲荷神社
MapCode : 5882657*30
建 立 日 : 1918年 6月
建 立 者 : −−−
種   別  : 開通・開駅碑
撮 影 日 : 2008年 2月14日


碑  文        東上鉄道株式会社社長 勲三等 根津嘉一郎篆額
   六軒町ハ川越ノ咽喉也入間川飯能青梅等ノ通路ヲ扼シテ百貨ノ輻輳
   人馬ノ来往昔時城下ノ殷賑北口ヨリスルモノ最多カリキ川越鐡道通
   シテヨリ此街顧客日ニ◇ク車轍俄ニ減シ爾来多年凋落巷ニ在リ偶東
   上鐡道敷設ノ企アルヲ機トシ町内ノ有志躍然トシテ起チ競ウテ醵金
   シ五千坪ノ敷地ヲ寄附シ奔走經營茲ニ川越町驛ノ開設ヲ見タリ時ニ
   大正三年五月列車軌道ヲ◇セテ東京ヘノ捷路斯ニ開ケ川越ノ交通益
   便ニ中武ノ産業愈勃リ将ニ近ク西武上毛ノ物貨ヲ茲ニ集散セントス  
   洵ニ善ク◇利便ヲ用◆協力奮励事ニ當ラバ此地ノ發展シテ俟ノヘ 
   ク有志斡旋ノ勞亦以テ空シカラズ爰ニ碑ヲ建テ永遠ニ公益の為ニ私
   資ヲ投シタル所以ヲ誌ス予此地ニ寓スルヲ以テ求メラレテ乃敢テ筆
   ヲ乗ル文ノ巧拙ハ惟町内人士後生ノ手中ニ竢ツ而己         
       大正七年六月下澣         
          埼玉縣立川越高等女學校教諭正七位逸見宮吉撰
          同              教諭     勝呂 一書


碑文文意  碑上部の「川越町駅碑」の書は東上鉄道株式会社社長根津嘉一郎による
六軒町は川越の喉仏にあたる。 入間川・飯能・青梅などとの道路を押さえ、多くの貨物が行き来し、人馬の往来、かつての城下の賑わいもこの辺りからのものが最も多かった。 しかしながら、川越鉄道(西武鉄道国分寺−本川越間)の開通によりこの街の客足は日々減少し、車両の通行も急激に減り、それ以来、多年にわたり巷は凋落している。 たまたま、東上鉄道を建設すると言う計画があるのを機会として捉え、町内の有志が生き生きとして起ち上がり、競争で醵金や5000坪の敷地を寄付について奔走し取り組んだ。 これにより、川越町駅が開設をした。 時に大正3年5月、列車は軌道を駆けて東京への近道がここに開設された。 これにより川越の交通はますます便利になり、中武の産業はますます盛んになり、まさに西武上毛の物資がここに集積しようとしている。 本当に、この利便を活用し、協力し、気力を奮い起こして事に当たればこの地の発展も期待して待てる。 有志による斡旋の労も空しいものにはならない。 ここに碑を建立して、永遠に、公益のために私財を投じたことをしるす。 私はこの土地に仮住まいをしていたが、依頼をされたために、敢えて文章を考えた。 文の上手下手はただ、町内の後世の人たちの判断を待つのみである。
 大正7年6月
  埼玉県川越高等女学校教諭 正七位 逸見宮吉 
 

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