招魂碑
碑の背景
コメント
横川と軽井沢を結ぶ路線の建設は1891年3月に着工された。 この区間は高低差553m、延長11.2Kmあるが、この区間を18の橋梁と26のトンネルに加え、急勾配対策としてアプト式鉄道が採用され、1892年12月に竣工した。 通常、この様な慰霊碑は全ての工事が終了した後に建立されるが、この碑は起工した起工して1年経過した1892年3月に建立されており、工事の竣功に9ヶ月先立っている。 何故この様な時期に建立されたのかは疑問である。

写  真
基本情報


所 在 地 : 松井田町横川404−8
MapCode :  292628074*67
建 立 日 : 1892年 3月 2日
建 立 者 : 魚住政吉
種   別  : 慰霊碑
撮 影 日 : 2010年 4月24日


碑  文 鹿嶋組 招魂碑
龍集明治二十五年春三月二日
兵庫県加古郡草谷村 魚住八十松 外五百名 明業舎 願人 魚住政吉
  
碑解説
   招魂碑由来
碓氷峠は、古代より要衝嶮難の地として、東海道箱根の天嶮と並び称されていました。 この地に明治十八年より碓氷アブト式鉄道の建設が開始され、当時の富国強兵の国是により太平洋と日本海を結ぶ鉄道として距離十一・二K、二十六のトンネル、十八の橋梁、高低差五百五十三米の碓氷線が一年九ヶ月の短期間で開通しました。 当時の技術を考える時、おそらく人海戦術であったろうと想像されます。 この難工事に全国各地より工事人夫が集められ、多数の犠牲者があったと言われています。 その慰霊の為、鹿島組の招魂碑が建設されたものと推測されますが、時久しく路傍の片隅で寂しく眠っておりましたので、この度鎮魂碑建設を機会に同地内に移転し、遠い異郷の地で殉職した方々を合わせて慰霊いたしました。
有志願わくは往時を偲んでもの言えず寂しく眠る久泉の人達の冥福を祈らんことを 合掌
           うすいの歴史を残す会
なお、この碑文にある五百名受難の真相は、現在においても多くの謎に包まれています。

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