慰霊碑
碑の背景
コメント
この事故は運転掛の指示により入替線に向けて移動していた貨物列車が転轍機を戻し忘れていた事により上り本線に侵入し、ポイント上に立ち往生していたところに、上り線を進行していた貨物列車が衝突した。 これにより上り線を進行していた列車の機関車は桜川手前で下り線上に転覆した。 そこに、下り本線を旅客列車が進入し5両の客車の内で、1両目は牽引機関車に乗り上げ、、2両目は1両目と3両目に挟まれて押しつぶされ、3両目は鉄橋からぶらされるような形となり、4両目は桜川に水没、5両目は線路上で停車と言った状態となった。 これにより96名の方が亡くなった。 
この事故が発生した昭和18年(1943年)は第二次大戦中であったために、殆ど報道がなされなかった。
写  真
基本情報


所 在 地 : 土浦市有明町
MapCode : 65 849 597*74
建 立 日 : 1986年 6月
建 立 者 : 国鉄事故犠牲者の
     慰霊碑建立のための準備委員会
種   別  : 慰霊碑
撮 影 日 : 2012年 8月21日


碑  文        慰霊碑
この慰霊碑は、昭和十八年十月二十六日、土浦駅構内に於て発生した列車三重衝突事故による犠牲者の霊を慰めるために建立されたものである。
この列車事故は国鉄史上にまれにみる大参事であった。 死者九十六名 負傷者百余名と記録されている。
事故発生の経緯は以下の通りである。 すなわち、貨物二九四列車が同日午後六時四十分に土浦駅に到着、直ちに入れ換え作業が開始されたが、同貨物列車は誤って上り本線に進入、立ち往生した。 その直後、駅構内へ上り二五四貨物列車が進入、二九四貨物列車と衝突した。 このため両者は脱線、暴走、二五四貨物列車は桜川沿いの下り本線上に転覆した。 この時多数の乗客をのせた二四一旅客列車はすでに駅構内に接近しつつあり、急停車する間もなく転覆していた貨物列車に激突した。 旅客列車は脱線転覆、一、二輌目は大破、三輌目は鉄橋から斜めに傾き、四輌目は完全に水没した。
事故発生後鉄道省は迅速にこれに対応した。 軍隊の応援を含む二千余名の人員を投入、輸送路確保のための復旧作業を開始した。
救助活動も直ちに開始された。 土浦市は地元の各種団体に応援を要請、市民もこぞって不眠不休の救援活動にあたった。 しかしあたりは闇に包まれ救助活動は困難を極めた。 時あたかも第二次世界大戦の真唯中であったため、救助を他の都市に求めることは不可能であった。 当時土浦在住の医師の多くは招集され、医薬品は極度に不足していた。 医師看護婦は市民と共に必死で救援にあたったが、事故の規模はあまりにも大き過ぎた。 このため負傷者のほとんどは十分な治療を受けることができず、犠牲者は露天の筵上に長時間放置された。
戦時下の厳しい報道管制により、この事故は国民の耳目に広く触れることはなく、犠牲者の霊は公に慰められることも ないままに、長い年月が過ぎ去った。
昭和四十年に至り、時の土浦駅長などの努力によって事故現場に木碑が建立された。 だがその木碑も風雨に洗われ、 もはや碑の由来を知ることもできない。
この度、木碑にかえてここに永久碑を建立したには、この悲しむべき惨事による犠牲者の冥福を心より祈ると共に、 このような不幸な事故が二度と起こらないことを強く祈念して後世に伝えるためである。

    昭和六十一年六月
    国鉄事故犠牲者の慰霊碑建立のための準備委員会これを記す。

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