七日町駅開設記念
碑の背景
コメント
 只見線会津若松〜西若松間3.1kmの途中、越後街道と交差する所に七日町がある。 只見線が開通した頃、七日町は鶴ヶ城の西の玄関口として問屋や旅籠等が軒を連ねており、会津一の繁華街として賑わっていた。
 1926年10月15日会津線(1971年只見線に編入)会津若松〜会津坂下間21.6kmが開通すると、西若松・会津本郷・会津高田・新鶴・会津坂下の各駅が設置されたが、会津一の繁華街と言われた七日町には駅が設けられなかった。  1934年11月にガソリンカーの運転が始まると同時に、七日町(なぬかまち)・根岸・若宮の三駅が新設された。 この駅がある場所の町名は七日町(なのかまち)であるが、この駅は同じ文字で「なぬかまち」と読ませている。 七日町駅は1945年6月20日に営業が休止されたが、翌1946年の6月20日に営業が再開された。
 碑文を読むと七日町駅の開設が1947年12月5日となっているが、ウィキペディアに書かれている七日町駅の歴史とは異なっている。
写  真
基本情報
 所  在  地 : 会津若松市七日町
 マップコード : 97 290 680*30
 建  立  日 : 1962年12月 5日
 建  立  者 : −−−
 種      別 : 周年碑
 撮  影  日 : 2014年 6月24日
碑  文 明治維新以降歴史に見られる日本の文化産業経済の発展はなによりも鉄道設置による交通網の開発が大きな礎石となったのである 会津の今日に至った栄光の歴史■また同様で即ち明治三十二年郡山若松間の岩越鉄道の開通大正三年若松新津間の磐越西線の全通昭和二年会津滝ノ原線の上三寄までの開通昭和三年会津川口線の柳津までの開通は本市の近代都市建設への脱皮を如実に物語っている 七日町通りは昔より越後街道の要衝として栄え若松随一の繁華街を誇ったのであるが会津両線の開通によって列車が素通りとなり年と共に衰退の一途を辿ったのである こヽに七日町々民は町の将来を憂れい関係各方面に対し七日町に停車場の設置方を強力に陳情したのであるが会津若松駅と西若松駅間はわずか三粁一分の近距離にありその中間に駅を設置することは全国にもその例がないので実現は至難を極めた 然し有志諸賢の■まざる運動の結果昭和九年十一月遂にガソリンカーのみの停留所が設置されその後七日町無人駅を利用するものの年と共に増加市勢発展上からも普通駅昇格の気運が盛り上り陳情を続けたのであるが太平洋戦争の勃発により陳情を一時中止せざるを得ない実情に至ったのである 戦後日本全土の復興と普通駅昇格への気運再びもり上がり昭和二十二年一月渋川賢二氏を委員長とする七日町駅新設期成同盟会が結成され当時参議院鉄道建設委員橋本万右エ門氏をはじめ地元選出の衆参両院議員県会議員三代に亘る若松市長市会議員等関係の方々の絶大なる協力のもとに請願駅として実現方を仙台鉄道局に陳情しまた昭和二十三年五月には小林喜四郎氏を委員長とする七日町駅建設委員会を設立し駅舎建設資金募集に東奔西走した この様な地元の熱意が陰に陽に関係官庁を刺激し幾多の紆余曲折を経て遂に昭和二十三年十二月五日現在の如き七日町駅が誕生したのである 当時駅舎の予算は百参拾余万円で建設され六拾参万円は地元寄附参拾万円は近村寄附五拾万円は若松市負担となった その後昭和三十年北会津郡下八ケ村の合併により名称も会津若松市と改称され名実共に会津第一の都市となり七日町駅は全会津えの基点駅となったばかりでなく市の中央駅となったのである 近時産業都市或は基幹都市建設がさけばれている現状に鑑み且つ本年野岩線並びに只見線の着工決定を見て共に今後の当駅は極めて重要な地位を占めることは明らかであり将来の会津若松中央駅として名実共に大いに発展されんことを念願して七日町駅開設十五周年を記念し茲に経緯を記したのである
    昭和三十七年十二月五日     会津若松市長   横山  武 題字撰文
                                    小林 春駒   敬 書
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