松川の塔
碑の背景
コメント
1949年8月17日午前3時10分頃東北本線松川−金谷川間を走行していたC51133が牽引する上野行上り列車が脱線・転覆し機関車の機関士と機関助手2名の3名が亡くなった。 脱線現場では線路の継ぎ目板が外され、犬釘も多数抜かれているのが発見された。 捜査当局では、この犯人として東芝松川工場労組、国労、共産党の共同謀議として組合関係者20名を逮捕・起訴したが、これらの方々は二審で3名、最高裁で17名の無罪が確定した。 この事件が発生した昭和24年には、7月5日に下山事件、7月15日に三鷹事件が発生しており、この3件の事件を国鉄三大ミステリー事件と言われている。
この碑は事件の裁判が全員無罪で終結した翌年、作家である広津和雄(松川事件対策協議会会長)が碑文を書いて建てられた。
写  真
 
基本情報
 所  在  地 : 福島市美郷
 マップコード : 129882556*86
 建  立  日 : 1964年 9月12日
 建  立  者 : 松川事件対策協議会
 種      別 : 事件碑
 撮  影  日 : 2010年 8月28日
碑  文  1949年8月17日午前3時9分 この西方200米の地点で、突如、旅客列車が脱線転覆し、乗務員3名が殉職した事件が起った。
 何者かが人為的にひき起した事故であることが明瞭であった。
 どうしてかかる事件が起ったか。
 朝鮮戦争がはじめられようとしていたとき、この国はアメリカの占領下にあって吉田内閣は、二次に亘って合計9万7千名という国鉄労働者の大量馘首を強行した。 かかる大量馘首に対して、国鉄労組は反対闘争に立上がった。
 その機先を制するように、何者の陰謀か、下山事件、三鷹事件及びこの松川列車転覆事件が相次いで起り、それらが皆労働組合の犯行であるかのように巧みに 新聞、ラジオで宣伝されたため、労働者は出はなを挫かれ、労働運動は終に遺憾ながら十分なる反対闘争を展開することが出来なかった。
 この列車転覆の真犯人を、官憲は捜査しないのみか、国労福島支部の労組員10名、当時同じく馘首反対闘争中であった東芝松川工場の労組員10名、合せて 20名の労働者を逮捕し、裁判にかけ、彼等を犯人にしたて、死刑無期を含む重刑を宣告した。 この官憲の理不尽な暴圧に対して、俄然人民は怒りを勃発し、階層を超え、思想を越え、真実と正義のために結束し、全国津々浦々に至るまで、松川被告を救えという救援運動に立ち上がったのである。 この人民結束の規模の大きさ は、日本ばかりでなく世界の歴史に未曽有のことであった。 救援は海外からも寄せられた。
かくして14年の闘争と5回の裁判とを経て、終に1963年9月12日に全員無罪の完全勝利をかちとったのである。
人民が力を結集すると如何に強力になるかということの、これは人民勝利の記念塔である。

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