沼尻軽便鉄道記念碑
碑の背景
コメント
20世紀当初、日本で産出される硫黄は高純度で海外に輸出されていた。 沼尻鉱山の硫黄も輸出されていたが、鉱山から磐越西線までの輸送において荷痛みに よる損失が著しかったために1913年5月、日本硫黄により路線延長15.6km軌間762mmの沼尻軽便鉄道が敷設された。
1950年代になると四日市でアラビアからの原油の精製が始まり、硫黄も生産されるようになった。 これによる硫黄の生産コストが沼尻で採掘されたものの 半分以下である1.7万/トンとなり、価格競争力がなくなり、沼尻鉱山は1968年に閉山された。 1950年代からの硫黄輸送の減少に伴い、硫黄輸送が 主力であった沼尻軽便鉄道の経営状況は悪化した。 対策として旅客輸送の拡大を図るためにスキー場や温泉開発等を試みたが、1968年10月に会社は倒産 し営業を休止、1969年3月に廃止された。

写  真
基本情報


所 在 地 : 猪苗代町川桁
MapCode : 377 391 835*31
建 立 日 : 2003年 9月
建 立 者 : 沼尻軽便鉄道
        復興促進協議会
種   別  : 跡地碑
撮 影 日 : 2014年 6月24日


碑  文
(表面)
  川桁駅発〜沼尻駅行き発着駅跡
    高原列車は行く
汽車の窓から  ハンケチ振れば  牧場の乙女が 花束投げる
明るい青空   白樺林  山越え 谷越え はるばると
ランランラン  ララ  ランランランラン
高原列車は ランランランラン 行くよ
みどりの谷間に 山百合揺れて  歌声ひびくよ 観光バスよ
君らの泊りも 温泉宿か  山越え 谷越え はるばると
ランランラン  ララ  ランランランラン
高原列車は ランランランラン 行くよ
峠を越えれば  夢見るような  五色の湖  飛び交う小鳥
汽笛も二人の しあわせうたう 山越え 谷越え はるばると
ランランラン  ララ  ランランランラン
高原列車は ランランランラン 行くよ 
  
(裏面)      沼尻軽便鉄道の歩み
沼尻軽便鉄道は沼尻山硫黄鉱区の日本硫黄(株)の関連事業として生まれた鉄道である.
明治四十年四月岩代硫黄(株)が増資して日本硫黄(株)が設立された.
明治四十一年九月那麻軌道(株)鉄道は日本硫黄の下請けとして川桁〜大原(現沼尻)間にレール幅六〇九ミリで、距離一五・六kmの人車軌道を敷設した.
明治四十五年五月、人車より馬車に代わりレール幅七六二ミリに変更された.
大正二年五月十一日、日本硫黄社内の那麻軌道部となり、一般旅客貨物の取扱いを開始
 車輌は十二人乗り客車三輌、無蓋車三トン、二十三両を所有、馬一頭が時速十二kmで一輌を引いた.
大正三年一月、ドイツコッペル社製蒸気機関車二輌を購入した.
昭和二十年一月一日より、日本硫黄沼尻鉄道と変更された.
昭和二十一年度、貨客混合列車は年間五十三万人の輸送、貨物は昭和十四年には五万四千トンが最大輸送量であった.
昭和二十八年、ディーゼル機関車(十二トン)が蒸気機関車に代わって運行された.
小さな軽便鉄道は、「マッチ箱:」の愛称で親しまれ、川桁、沼尻間を硫黄・木材・炭等を運搬し中の沢温泉、横向温泉の湯治客、沼尻温泉スキー場への旅客の輸送と沿線住民の足として寄与してきたが、道路の整備、交通機関の発達、社会情勢の変化に伴い、五十六年の輝かしい業績と数々のエピソードを残した.
沼尻軽便鉄道は、日本硫黄沼尻鉄道から日本硫黄観光鉄道、磐梯急行電鉄と改名し、観光輸送に活路を見出そうとしたが果たせなかった.
昭和四十三年十月十三日、最終列車が別れの汽笛を沿線に流しながら走り去った.
   平成十五年 九月
   記念碑設立発起人  沼尻軽便鉄道復興促進協議会
                          猪 苗 代 町
                          川   桁   区
 

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