千葉繁翁開駅盡力記念碑
  
碑の背景
コメント
 上野から塩竃まで営業所ていた日本鉄道は1890年(明治23年)4月16日に岩切−一ノ関間を開業させた。 この時のルートは岩切から利府を通り、現在の品井沼駅に至るものであり、松島・小牛田・瀬峰・石越・花泉・一ノ関の各駅が設置された。 1892年には松島−小牛田間に鹿島台駅が開業し、1918年8月16日に松島−鹿島台間に幡谷信号所が開設されたが、単線での列車交換のためのもので客貨の取扱は行われなかった。 地元では信号所の駅昇格を請願を続け、1932年12月26日に駅に昇格するとともに名称が品井沼駅となった。
 1944年には線路増設と勾配改良のためにこれまでの路線よりも海寄りに線路が引かれ、陸前山王−品井沼間が開業した。 これにより従来の線は山線、新規に開業した線は海線と呼ばれるようになった。 その後、線路改良は海線側で行われ、山線は1962年4月に松島−品井沼間が廃止された。
 
写  真
基本情報


所 在 地 : 松島町幡谷字鹿渡
            品井沼駅前
MapCode : 110 655 398*68
建 立 日 : 1947年 2月
建 立 者 : −−−
種   別  : 顕彰碑
撮 影 日 : 2014年 7月21日


碑  文       千葉繁翁開駅盡力記念碑
翁は明治十六年八月宮城郡松島村幡谷の旧家千葉勝次郎氏の長男として生まれました資性俊 敏歓為の氣魄に富み公共の事に挺身盡力して止まぬ人でありました由来幡谷地方は前に起 伏多き丘陵背面は市内沼の低湿地に囲まれ運輸交通甚だ不便で在住民の不利久しいものが ありました明治二十三年東北本線開通大正七年幡谷信号所が設けられましたが貨客の取扱 いなく当時品井沼の開墾ほゞ成り生産物の増加著しいものがあったに係らず依然として僻 地の苦を忍ばねばならず駅の設置は地方民の熱烈なる要望でありました当時の村長櫻井四 郎右衛門氏亦深く茲に思いを馳せ近接町村長と相謀り之が設置を申請したのでありますしか るに満州事変の擴大其他の事情でその實現は容易ならざるものがありましたが追願に次ぐ 追願陳述これ力めひたすらその實現に邁進したのであります而して常に地方民の先駆とし てその衝に当たられたのは翁でありましたかくて地方有志の誠意漸く当局の認むるところ となり昭和四年五月七日付八田鉄道次官より駅用地及び道路新設等地元寄附の條件で初め て駅に変更の承認を得るに至ったのでありますこれに力を得た翁は更に日夜を分たずその 調達に努め或は私財を投じ東西に奔走し時の町長大宮司善治氏亦大いに力を致し昭和七年 十二月多年の宿望こヽに達し駅名もゆかりの地名に因み品井沼駅として実現を見るに至っ たのであります顧みれば此間實に十箇年翁の盡力洵に仰ぎみるべきものがあります駅の業 務を開始するや地元は勿論近接町村の利便■に開け戸口日に集り車馬月に繁く地方開発の 趨勢實に洋々たるものがあります即ち翁が畢生の努力は茲に結實したものと言うべきであ ります而して此間青木存秀氏を始め地方有志町当局が表裏一体の功亦甚だ大なるものがあ つたことを茲に併せ記して永く翁の徳と共に頌して以て世に傳えるものであります
   昭和二十二年二月       千葉繁翁記念碑建設發企人一同
                     題並撰  松島町長  伊藤政治


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