日本労働組合運動発祥之地 日鉄機関方同盟罷工記念碑 |
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碑の背景 コメント |
1891年9月1日、東北本線は青森まで全通した。 1898年に日鉄の機関方や火夫が「我党待遇期成大同盟会」を結成し、待遇改善を要求する争議を起こした。 待遇改善の内容は単なる賃上げに加え職名改称による労働者の地位向上も掲げていた。 大同盟会は各地で嘆願書を一斉に提出し、尊法闘争を始めたが、日鉄側は首謀者である石田六次郎など10名を解雇することで対抗した。 機関方は電信で連絡をとり、2月24日夜、東北・関東の機関庫において約400名がストライキに入り、東北本線上野〜青森間の全列車が運休する事態となった。 ストライキは三日ほど続き、27日頃に終結した。 その後の団体交渉において大同盟会側が勝利した。 大同盟会は争議後に解散して日本初の企業別組合である日本鉄道矯正会を結成した。 |
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写 真 基本情報 |
所 在 地 : 八戸市尻内町人形場 MapCode : 84 022 450*88 建 立 日 : 2002年 9月15日 建 立 者 : 日本労働組合発祥百周年 記念事業実行委員会 種 別 : 発祥碑 撮 影 日 : 2014年08月24日 |
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碑 文 | (表面:上) 日本労働組合運動発祥之地 日鉄機関方同盟罷工記念碑 (表面:下) 1898年(明治31)2月24日、当時最大の鉄道会社である「日本鉄道」の尻内(現八戸)機関庫から、機関方(機関士)らによる同盟罷工(ストライキ)が発生し、一日を経ずして東北、関東の全線全機関庫に広がった。 この罷工を指導した中心人物は、尻内機関庫の機関方石田六次郎であった(石田は後に復職1919年尻内の区長歴任)。 この争議は、日清戦争後続発した争議の中で最大規模のもので、日本労働運動史上初めて労働者側の全面勝利に終わったこと、争議後に機関方らは日本で初めての本格的な単一労働組合「日鉄矯正会」を組織したことからも、画期的なできごとであった。 また、この罷工の最大の意義は、労働運動だけでなく、日本社会の近代的発展に大きな影響を与えたことにある。 石田六次郎は次のように喝破する。 「実業界に改新を与え、全国無数の団体に新空気を送り、直接間接国家の裨益少なしとせす。 これらの美挙を永遠に伝う、決して無益にあらず。」 (「我党待遇期成大同盟会一ノ関支部記事」序、石田六次郎述 明治三十一年四月) (裏面) 1998年2月24日 百周年記念式典挙行 日本労働組合発祥百周年記念事業実行委員会 記念大会長 島守光雄 実行委員長 三上秀光 2002年9月15日 建立 |
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