雅泊航路記念碑
碑の背景
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稚泊航路は終戦前まで日本の統治下にあった樺太の大泊と稚内を結んでいた鉄道連絡船で、1923年に航路が開設された。 稚内〜大泊間210kmを約8時間で結んでいたが、ソ連軍が侵攻してきたことにより、1945年8月24日に樺太からの便が稚内に到着下のを最後に航路は運航は中止された。

写  真
基本情報


 所 在 地 : 稚内市開運
            稚内港
 MapCode : 964007098*44
 建 立 日 : 1970年11月吉日
 建 立 者  :
  稚内市 稚内市民
  国鉄部内外の船舶関係者
  国鉄OB会  国鉄職員等
           の寄付による
 種   別  : 跡地碑
 撮 影 日 : 2007年06月18日


碑  文  この地稚内から、いまは異国の地樺太大泊に 国鉄雅泊連絡航路が開設されたのは、宗谷本線が稚内まで全通した翌年の大正十二年五月一日である。
 この航路は、一六七キロの海上を約九時間を要し、ときに宗谷海峡特有の濃霧 あるいは結氷と流氷との悪戦苦闘により守られたてきた。 昭和二年砕氷客貨船亜庭丸(三三五五トン)昭和七年最新鋭船宗谷丸(三三九三トン)が就航するに及び、その往来還は飛躍的に繁栄の一途をたどってきた。 しかし、終戦直後の昭和二十年八月十四日十八時、二十二年にわたる歴史的使命を終え、その幕を閉じたのである。
 いまここに星霜二十有余年、稚内桟橋がその面目を一新するときにあたり、有志相図り、雅泊航路の輝かしい業績と、幾多先人の労苦を銘記してこの碑を建立し、永久に記念するものである。
  昭和四十五年十一月吉日
   有志を代表して  旭川鉄道管理局長  深沢今吉
               稚   内   市   長  浜森辰雄

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