北海道
鉄道発祥驛

碑の背景
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北海道の鉄道は1880年1月に着工され、11月に開通した手宮−札幌間が最初である。 この鉄道は幌内で産出された石炭を船に積み込める場所まで輸送することを目的として建設された。 当初は幌内から江別付近の石狩川までの計画であったが、江別付近は湿地が多く川舟への積み替え設備建設が困難なこと、石狩川の凍結により半年間は川舟による輸送が困難なこと、貨車から川舟、川舟から道外に移送する舟へと積み替えの手間がかかること等から小樽−幌内間を直接鉄道で結ぶこととなった。 この為、鉄道は港のある小樽から札幌、幌内へと伸延された。 この為、最初に設置された駅が小樽であり、ここに発祥駅碑が建立された。

写  真
基本情報


 所 在 地 : 小樽市手宮
      小樽交通記念館手宮口左側
 MapCode : 493720757*02
 建 立 日 : 1949年11月18日
 建 立 者 : 手宮駅旅客取扱
            復活期成同盟会
 種   別  : 発祥碑
 撮 影 日 : 2004年 7月


碑  文 北海道の鐵道發祥地は手宮驛である  その由来は明治六年に北海道開拓長官黒田清隆が幌内煤田採掘の計画の下に技師を派遣して調査研究させた結果に基づきまづ幌内幌向太間は鉄道を建設し幌向太からは石狩川を船で川口に下り小樽に運送する計画を樹てた事に始まる  明治十二年三月に線路の測量が開始されたが偶々冬季河水の凍結石炭積替の手数等のため不利であろうとの意見が出て鐵路により直接小樽港手宮に運送する事が最も有利であると認められ幌内手宮間五十六哩の一部手宮札幌間の鉄道が敷設される事となった  明治十三年十一月十八日遂に手宮輕川間が開通し列車は辨慶号機関車をもって運轉された  ついで同月二十四日に札幌まで開通し更に命じ十五年末に札幌幌内間が竣工しここに手宮幌内間が全通した  以後鐵道は逐次延長されて今日の發展を見たのである  その第一歩は正しく手宮驛からであつて北海道の鐵道發祥地と稱する所以である  しかるにこの由緒深い手宮驛の旅客取扱が太平洋戦争酣の昭和十八年十月に國策によつて廢止された  以来市民は尠からず不便を感じていたが二十年八月終戦を迎えると共にこれが復活の聲は油然く起こった  ここにおいて有志は手宮驛旅客取扱復活期成同盟會を結成し會長に西富士松を推して運輸當局に復活請願を續け幾多の迂余曲折を経て二十三年十一月十日に列車は漸く南小樽驛まで復活した  しかし乗換のための不便が頗る多く重ねて直通列車運転を要路に懇請した結果二十四年九月から岩見澤驛まで二往復の直通列車の運轉を見るに至ったのである  これを機會に手宮驛の由来に併せて長年月に亘り献身的努力を画した西會長の偉大な效績を勒し碑を建立して記念とする

碑文意 北海道における鉄道発祥の地は手宮駅である。 何故かといえば、北海道開拓長官であった黒田清隆が明治6年に、幌内煤田炭鉱の採掘計画により技師を派遣して調査研究を行った結果に基き、幌内〜幌向太(現在の函館本線幌向駅)間は鉄道を建設し、幌向太からは石狩川を船で下り、小樽まで運搬する計画を立てた事に由来するからである。 明治12年3月に線路の測量が開始されたが、たまたま、冬の河川凍結、石炭積み替えの手間などで(幌向太からの石狩川を利用した輸送は)不利であろうと言う意見が出て、小樽港手宮まで鉄道により直接輸送する事が最も有利であると認められ、幌内〜手宮間56マイル((90km)の一部である手宮〜札幌間の鉄道が敷設されることになった。 明治13年11月18日、遂に手宮〜軽川(現在の手稲駅)間が開通し、弁慶号の牽引する列車により運転が行われた。 ついで、同じ月の24日には札幌まで開通した。 さらに明治15年末には札幌〜幌内間が竣工し、これにより手宮〜幌内間が全線開通した。 この後、鉄道は逐次延長され、今日のように発展をした。 しかしながら、この由緒正しい手宮駅の旅客扱いは太平洋戦争がたけなわであった昭和18年10月に国の方針により廃止となった。 以来、市民は少なからず不便を感じていたが、20年8月に終戦を迎えると、旅客取扱い復活の声が盛んに湧き起こった。 そこで、有志により手宮駅旅客取扱復活期成同盟会を結成して会長には西富士松氏を推し、運輸当局に復活請願を続けた。 幾多の紆余曲折はあったが昭和23年11月10日に列車はようやく南小樽駅まで復活した。 しかし、乗り換えのための不便が大変に多いため、更に直通列車の運転を関係先に請願した結果昭和24年9月から岩見沢駅まで2往復の直通列車が運転されることとなった。 これを機に、手宮駅の由来とともに、長年にわたり、献身的な努力をされた西会長の偉大な功績を彫り刻んだ碑を建立して記念とする。
  

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